女より男の給料が高いわけ

かなり前に読んだ本だしちらっと言及したこともあるのだけど、大分自分の考えもまとまってきたので一度総括しておきます。

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

ここ数年の間に読んだ中で最も不愉快な本。その不快感がいろいろ読んで考える原動力になったとも言えるので、一面では感謝するべきなのかも知れないが。
本書の主張は、男女の給料格差や「ガラスの天井」と呼ばれる現象が、進化の過程で生まれた男女の興味や能力、気質、技量などについての違いの「結果」ではないか、というもの。要するに女性に比べて男性の方がハイリスク・ハイリターンの行動をとりやすい(その方が繁殖に有利だったから)、結果的に給料が高い人もいれば低い人もいる、ってことだ。
私も男女があらゆる面で同じであるはずがないしその必要もないと思っているが、それにしても本書の説明はツッコミを入れたい所が多い。大きく三点にわけて述べてみよう。
一点目、データの信憑性について。出典が一切示されていないので、事実無根のホラ話じゃねえの?という可能性もあるが、まあこれは読み物としての性格上示さなかったのだと好意的に解釈できる。しかし内容的にも、被験者や周囲の人間がどのような社会規範を内面化しているか、産業や家族の形態がどういったものか、という「社会的な」要素を度外視しているので、大丈夫かいなという感じがある。生物学的な理由なんてない、というような顔をしてきた社会学の方にも問題はあるかもしれないが、そもそもこんな複雑な社会の複雑な行動をどちらかの要因だけで説明できる訳がないのだ。進化だって環境に適応しているんだから、社会との相互干渉があるんだろうし。
まあとりあえず書かれていることは正しいとして、二点目は現状に対する認識について。男女の行動傾向に差があるのは確かだとしても、傾向差というからには個人差を前提としている。しかしそれが社会規範や法制度となった途端、例外が認められなくなる。男対女の図式を強化することで個々人の多様性が見えなくなるのではないか。またアメリカはもしかすると真に自由な競争があって男女の給料格差が生まれたと言えるのかもしれないけど(よく知らないのでなんとも言えないが)、現に「大卒女子はいらん」という就職差別や働かない女性の方が有利になりうる税制上のしくみが存在した(している)日本の読者に「そうそう、そうだよね」なんて納得してもらいたくない。
三点目は未来の展望について。現在の状況が自然の結果だとして、じゃあこのままでいいの?どういうのが理想なの?というビジョンが提示されているわけではない。論の流れからいけば現状維持路線なのだろうと思われるが。
そもそも、「抑圧してるつもりがないから抑圧構造はないんだー」という認識はかなり危ないと思う。抑圧されていると感じる人がいることこそが問題にされるべきだ。「被害者意識」は確かに外から見ると鬱陶しいものだが、「文句言うのはあんたの自意識過剰じゃないの」という冷たい視線は、いざ自分が当事者になった時に初めてその残酷さがわかるものだろう。
「自然の結果」としての現状肯定という論法は、特に人種・障害・年齢から血液型まで「生物学的差異」が認められる様々な側面で、差別を正当化し得るものだと思う。例えば障害者の就職先が限られていたり給与の水準が低いものであった場合、単純に競争すれば障害がない方が有利になるだろうから、現状は自然の結果であり、原因ではない。しかし障害が障害でなくなるようなサポートや欠格条項の撤廃が必要でないということにはならない。テクノロジーが進歩し産業構造も変化してきている現在、必ずしも身体的機能の損傷が「障害」になるとは限らないのだから。
そんなわけで言いたいことは山ほどある本だが、「社会化一辺倒」な議論に対する批判として言いたいことはわかる。本文よりもずっと不愉快なのは竹内久美子の解説である。私には穴だらけに思える本書の議論を手放しで絶賛しているのにも萎えるが、単純な対立図式に持ち込もうとする姿勢には全くうんざりする。そういうのはお笑いシモネタ本の中だけにして欲しい。
まあ、「フェミニズムって嫌われてるなー」というのが率直な感想か。その点では「みんな男が悪いんだい!」と言ってきた(一部の)フェミニストにも反省してもらわんとね。抑圧的な構造が存在するとき、抑圧されているマイノリティの敵はマジョリティではなく構造そのものである。いたずらに対立構造を煽ったって何の意味もない。そういう意味では本書の立場も本書が批判する「フェミニスト」の立場も土俵は同じかもしれない。
男だろうが女だろうが、ある面では抑圧し、ある面ではされている。入れ替えたり同じにすればいいっていう問題じゃない。性差もあるがそれ以上に個人差がある、その多様性が許容される社会をつくろうよ、ってことでしょう。