少数言語と手話

今日締め切りのレポートを提出。間に合ったというよりは時間切れの感だが。「少数言語をひとつ取り上げて手話と比較する」というテーマに沿っているかどうかわからないが、日本における多言語状況ということで方言と手話について書いて出した。
言語というのはアイデンティティの基盤になる重要な文化であるが、それだけに権力構造と結びつきやすいようだ。「標準語」が東京方言を採用して選定されたことと、「国際共通語」が実質的に英語になっていることにはパラレルな構造がある。つまり、(言語学的ではなく)政治的・経済的な理由で優位な言語が決まるということね。
「言語に優劣はない」という相対主義は近代言語学では常識中の常識だけど、実際には「英語が話せるとカッコいい」とか「訛っているとダサい」という感覚はあったりする。その感覚がどこから来るのか、どんな状況を反映しているのか、そこでは何かが抑圧されているのではないか、それは何なのか。
私の興味対象は基本的に言語の内部の構造だったし、今も基本的にはそうなのだけど、誰に話されどのように扱われるのかといった言語外的な状況についても考える必要があると感じた。いずれこのへんのことはもう少しちゃんとまとめて書きたいな。