「学級」の歴史学

「学級」の歴史学―自明視された空間を疑う「学級」の歴史学―自明視された空間を疑う
柳 治男

講談社 2005-03
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これは面白かった。現在のような「同じ年齢の生徒が同じ教室に集められて座って教師の話を聞く」という形の「学級」がいかに無理のあるものか、ということを、パックツアーやチェーンシステムとの比較をしながら歴史的に明らかにしていく。
まず、学級制とパックツアーが同じ産業革命期のイギリスで生まれたという話からして面白い。しかもパックツアーは目的が明確で短期間で自発的な参加によるものゆえに参加者の自己抑制が可能になるが、学級はそうではない。
また、学校組織は当初「読み書き計算」という限定された内容を教えるためにいかに効率的に安上がりにするかを考えて(ちょうどマクドナルドなどと同じチェーンシステムのように)造られたものだという。しかし日本に学校制度が輸入された時、日本ではまだ村落共同体が生活基盤として力を持っていたため、「学級」も「共同体」化して受け入れられることになり、あらゆる活動を内包する「重たい学級」が出来上がる。
私たちが現代の教育に関して「不登校」や「学級崩壊」について語る時、「学級」を自明のものとしてそのハード自体は疑わず、「理想的な教育」というソフトに関する議論に終始する。だが本当はハードとしての学級制自体が「目的のない長期間の非自発的なパックツアー」であり、私たちはチェーン店でフルコース料理を頼むような無理を犯している可能性があるのだという。
授業規律を守らせることの難しさは、それを教師自身が合理的に説明することの困難さにあるような気がしていた。本書は私の「学級」や「教育言説」に対するもやもやした違和感を明確化してくれたように思う。「やっぱり学校って無理のある制度なんだ」ということを知るだけで救われる子供たちも少なくないだろう。
しかしこれを読んだ後で「自分がいざどうやって学級運営をしていくか」ということを考えると、難しい、なあ…。